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第四の課題―自己破産

 さて、今回は自己破産について書きたいと思います。
 自己破産はたいへん、職場や周りの人に知られてしまうんじゃないか、とかいろんな心配があると思っていませんか? 私の経験上 これらの心配は全くありませんでした。
費用の方も20,000円あればお釣りが来ますです。ハイ
 
 では、破産手続きと免責許可についての必要書類をざっと書きますね。
  戸籍謄本・住民票の写し〔本籍地、世帯全員が載っているもの〕・債権者一覧表〔借金しているところ〕・資産一覧表〔土地、家屋、金銭などの財産〕・通帳‐全ての通帳2年分のコピー・2か月分の家計全体の状況・保険証券〔生命保険、損害保険〕のコピー・車検証、場合によっては下取り価格表・申立人の給与明細〔2ヶ月分〕、場合によっては1年分の源泉徴収・住居の賃貸契約書のコピー又は土地建物不動産登記簿謄本・債権者との契約書〔明細書、郵便物〕・支払い督促正本、調停調書正本、判決正本など訴訟等の状況が分かるもの・・・など。でも、人それぞれ、状況が違うので必要書類は他にもありますが、ざっとこんな感じです。
あっ そうそう、はじめに裁判所へ行って「自己破産したいのですが・・・」と言いに行って破産についての書類を貰って来て下さいね。そこからスタートです。

と まあぁ 役所へ行ったりコピーをしたりして必要書類を集めました。

それからどうしたかは、次回へ つづく・・・で お願いします。


明日子供の運動会なので、子供が帰ってくる前にお弁当のおかずの買出しに行ってこないといけないので・・・行ってきまぁす!

ずばりやりましょう。

  ずばり、父が亡くなってから 私名義、父の保証人をしたものの銀行系・信販系・消費者系から、ハガキや電話が・・・私は父のために、金策をしたりしていました。あの当時は良かれと思ってした事でしたが、今思えば、良くない方法で、悪い娘だったのです。もっと一緒に考えて、違う方法で対処していれば・・・今更なんですけどね。
 財産放棄をしなさいと言ってくれた―ボス―に全て打ち明けました。その後ボスは「心配ないよ。私を信じて任せなさい。」と優しい顔と声で言ってくれました。
私は ボスの後ろに父を見ながらボスの言うとおりにやろうと 心に決めました。えっ 何を決めたか?・・・・・・自己破産・・・・・・をすることに決めたのです。
母も私と同じ状態でしたので、母も自己破産を決意しました。

さて、決めてからというもの私の心はなぜだか毎日が充実感で満たされていました。ボスという存在がきいたのでしょうね。眠れない日、お金のクメンの不安、どうしようもなくてただ泣いていた夜 これがなくなりました。

決して 自己破産が良い事だとは言えません。でも、新しい一歩を踏み出す手段だとしたら、私の経験上良い事の部類に入ってしまいます。
 
次回詳しく第四の課題・・・自己破産・・・についてお話したいと思います。

母の生活

 私の旦那様は、父が入院してから自分の家にひとりでいたくないだろうと母を気遣ってくれ、その日から〔去年の6月〜今年の3月頃まで〕私たちと一緒に暮らすことを勧めてくれました。勿論 その行為に甘えさせてもらいました。旦那様は、とても人の気持ちが分かるデジタル人間でなく、アナログ人間なのです。  
仕事のお休みの日は、旦那様は料理人なので、父の好きそうなものをいつも作って病院に運んでくれたり、父の話し相手にもなってくれました。    本当に感謝です。

 さて、母も納骨を済ませ落ち着いてきたころ、そろそろ自立しなくては・・・と。でも、父と暮らした家には戻りたくないとのこと。でも、看病で仕事も辞めてしまったし、年金の手続きはしたものの、3ヶ月ぐらい先になると・・・父の生命保険は、以前話した父の弟に取られてしまい、一銭も無し。でもでも、医療費のもどりやらで何とかアパートのお金ぐらいは出来ました。でもでもでも、引越し代が・・・悩んだあげく、自分たちで。私のボスも汗だくになって手伝ってくれました。それはそれは、荷物が多くて大変でした。
第三の課題クリアです。     安くて日当たりのいい、私の家から車で3分のアパートに引っ越すことが出来ました。
 
 今でも、母は一人は寂しくて私のうちに来ては一緒にご飯してます。週末は上の子がお泊りに行ったりしています。
スープの冷めない距離って良いものですね。
 

またまた 余談がしたくなったので・・・

 今日の家の夕飯のメニューは―カレーライス&マカロニサラダ―
みんなで食べていたら、マカロニサラダは父が好きだったなんていう話になり、そこから 父の手料理の話へと発展していきました。

 父は料理人でした。。。昔の話ですが。。。
 私が結婚してから、週末などに腕を振るってくれました。孫が生まれてからは、週末はは勿論のこと イベント行事には何日も前から考えて、仕込みをして、テーブルいっぱいにお料理を作ってくれていました。

ここで、私の好きな父の料理 べすと5  1:がめ煮
                    2:八宝菜
                    3:バラちらし寿し
                    4:すいとん
                    5:天丼

                        こんな感じです。

私の母にも私にも絶対にマネ出来ない味 味 味なのです。こんなに早く逝ってしまうなんて思ってもみなかったから・・・きちんと作り方教えてもらっておけばよかったと・・・もう一度だけでいいから た た 食べたい!
作っている姿 思い出したら泣けてきて夕飯がグズグズでした。
今考えてもなんだか泣けてきて・・・うーん食べたい―

           次回は第三の課題に・・・ 

脱線&不思議体験・・・

 ブログ初心者の私は、初めてリンクということをしてみました。―お父さんごめんなさい!1億円も返せません。チビと私の倒産破産体験記―とても、それから、それから、、、と読み入ってしまうブログですよ!
リンク操作成功で、とっても嬉しい私ですぅ。

 今日はちょっと不思議体験を話してみたいと思います。
父が亡くなってから、四十九日が過ぎたころまでの出来事です・・・父が着ていたパジャマを私の旦那様が着てくれていたのです。が、お風呂から出てパジャマに着替えてくると、決まって父が病院で入浴した後の病室に香るとてもいい香りがするのです。使っているシャンプーやソープもまったく違うのに・・・ほんとなんですよ。私はずっと誰にも言わずにいましたが、四十九日法要がすんだころ 旦那様と母に話したんです。〔言ってしまったら、香らなくなると思ったので黙っていたんです。〕そうしたとたん、やっぱり消えてしまいました。でも、何回かは時折香ってきたんですよ。旦那様も母もそれを体験しました。ビックリしていました。今は全くですけど・・・

まだまだ不思議体験はあるんですが、小出しにしていきますね!

父の弟は弟ではない!

 いきなり 書きますね。何か思い出すだけで怒りが頂点に行ってしまいそうなので・・・

 もう10年以上も前の話からなんですが、父の姉夫婦 もうおじいちゃま・おばあちゃまなんですけどね、子供ができなくて、父達は9人兄妹でしたので 一番下の弟を養子にしたそうです。でも地元には居なく、遠くに住んでいるんです。なので、私たち夫婦・私の実家が面倒を見てきました。〔お金の面倒ではなく、身の回りのいろいろですが。〕夏は草刈に行ったり、そう 7,8年前におじいちゃまが入院したときは、本当に大変でした。まだ 生まれて2,3ヶ月の上の子を連れて毎日病院へおばあちゃまの送り迎え、でも 私はいろんな面での恩返しだと思ってやっていたし、孫みたいな赤ちゃんが来るのを、もの凄く楽しみにしていたおじいちゃまの為だからとせっせと通いました。養子になった父の弟はというと、たまに来るだけ。こちらが様子を連絡し、翌日来た日なんかは、お世話様でもなく、―聞くのと 見るのじゃ 大違い―なんてことを言ったりして。    おじいちゃまは入院して、4,5ヶ月でなくなってしまいました。   おばあちゃまは、お嫁さんとうまくいっていないので、結局 私の近くに住むことになり、今もお世話しています。が、あらたまって父の弟からは何も言われたことがありません。言われ続けてきたのが、父の実家は昔商売をしていました。お金にルーズだった父の母の借金やらお店もうまくいかず、借金が残り、それをおじいちゃまに肩代わりしてもらったりしたこと、前にも話しましたが、父の負債の件ではおじいちゃまに沢山助けてもらったこと、などなど・・・全部並べて金返せと、父がなくなる数年前から父には言えないので、私の兄に脅しのごとく昼夜かまわず電話してくるのです。おじいちゃまたちはもういいと言ってくれていたのに・・・父が亡くなってからは兄が自律神経失調症?になるまでしつこく、このままでは兄がだめになると、
父の生命保険全額よこせと、いったんよこせばまたいくらかは戻すから、わるいようにはしないから、と言われるがまま渡しました。が、もう何ヶ月も戻ってきていません。今ではそんなこと言っていないようなことを言っています。    
父にだって悪いところはあったはずです。でも、許せません。
なので、父の新盆にも来れず・・・です。
おばあちゃまも何とか言ってくれればいいのにとは思うのですが、あのこに捨てられたら困るからと何もしてはくれません。近くに住んでいて、80近いおばあちゃまと縁を切れば、年に一度しか顔を出さないちちの弟は一番困るのですが、私の子供ナシでは生きていけないというくらい子供を思ってくれているし、あんな子供しかしかいないおばあちゃまがかわいそうでもあるし、でも 憎い!

一番 兄妹で仲の良かった父とおばあちゃま。縁を切ったら父が悲しむと思っているのも これ事実なのです。辛いところです。

父の弟は絶対に許しません。いつか 復習してやります。
これが未だ解決していない第二の課題です。

私っておかしい?

次から次へと・・・

 前回はおもーい話になってしまいました・・・
 今回も、そうかも・・・

 父が亡くなり あっという間に 通夜 葬儀 初七日 四十九日と過ぎました。今でもそうですが、泣いたり笑ったりの日々でした。
実は、父は多額の負債を抱えていました。私や母名義で借り入れや、保証人などのものもありました。私の主人も保証人をしていました。父は、人のために損得を考えて何かをする人ではなかったので、騙されたり、人のために自分がバカをみた結果が、こうでした。
 そう 入院中 父がこの人は信用できる人だから、この人の言うとおりにしていれば、絶対に間違えないから。と 退院までにはまだまだと思ったのか・・・何かあったらと思ったのか・・・とても優しそうな容姿、でも目の奥は鋭い感じのおじさまに合わせてもらいました。そのおじさまを、私は今―ボス―と呼んでいるのでこれからは、そう書かせていただきますね!
 ボスと色々話していくうちに、亡くなってから3ヶ月の間に財産放棄ということをしなければ、母や私たち兄妹つまり、血族はその債務の相続人になってしまうことを教えていただきました。そう、借金も立派な財産なのです。私たちは色々な書類を集めて手続きをしました。そして裁判所で財産放棄を終了しました。終わってみると意外と簡単かも・・! 
父宛に債務請求の郵便が届くと、亡くなったこと、財産放棄をしていること〔裁判所から放棄した時に番号をもらうので、その番号を通知するのです。〕を手紙に書いて郵送すると、後は何も起こらないのです。 

まず、これが父が残した私への第一課題でした・・・

明日というか、もう今日かぁ  下の子のお弁当作りがあるので この辺で失礼して、おやすみなさい・・・

何が何だか・・・

先週末から、下の子が発熱しやっと元気になってブログに向かうことができます。
な な なんと、何が何だか分からないまま 自分のブログをやっと開いてみたら、コメントが入っているではありませんか!   すごく感激してしまいました。 有難うございます。

さて、本題に入ろうかと思います・・・
去年の6月の後半、父が頭が痛くて吐き気がすると言い出してすぐに病院へ行きました。診察結果は―脳・肺・肝臓に悪性の腫瘍が。ステージ4の癌でした。余命3ヶ月とのこと・・・―私は11月まで本当の事は知らないままでした。家族に言わせると子育て真っ最中でもあったし、感情的な性格なので。父にも告知はしていませんでした。なので、父と私はカビや細菌からできる良性の腫瘍と説明されていました。
父は‐孫命‐のおじいちゃんでした。なので 毎日子供を連れて病院へ行きました。それだけが楽しみだったのです。兄は可能な限り生きさせたいと、医師に良いと思うことは全てやってほしいと・・・痛い思いはさせたくないと、治療をおねがいしていたそうです。なんとか理由をつけて治療をしてもらいました。本人も治したい一心で・・・本当に頑張っていました。外出許可が出た日は自分の家ではなく、孫の家 つまり私の家にしか来ませんでした。こんなことができたのも、8月頃までで、9月に入ると日に日に食欲もなくなり、ベットの上に横たわっている日が多くなってきました。家に帰りたいと泣いた日も・・・イライラで怒鳴る日も・・・そして、ただただ寝ている日が続きました。そのころ 11月の頭でした。母のズボンのポッケから一枚の紙が・・・年内もつかどうか・・・と医師の字で書いてあったのです。ドラマのワンシーンのように、手で目を何度もこすり何度も読み返しました。が 何度読んでも年内・・・車の中で大声で泣きました。一番大変なのは父なのだから・・・と自分を奮い立たせて病室で・子供の前で笑っていました。が、父も頑張りすぎたのでしょうか、12月の中旬に眠るように逝ってしまいました・・・・・・・・・・。
上の子は病院中響くほどの声で泣き叫んでいました。私はというと、呆然。その後、父が居た病室の荷物を片付けて、外へ出るともの凄い雨が降っていました。

ここまでが、ざっとの父が亡くなるまでのあらすじです。書きたいときに細かいことは書いていこうと思います。

今日は、私の人生の中で 一番辛く悲しい出来事を書きました。でも、今は落ち着いた気持ちでこれを書いています。

                      つづく・・・